静寂のかすかな喜び
男は一人、薄暗い部屋の片隅で “なめらかプリン“を食べていた。この家には彼の他には誰もいない。いや、正確には彼は家族と呼べる関係の人々と共に暮らしているのだけれど、いつも彼が家に帰る時間帯には部屋の電気が消され一切の物音が消え失せているし、さらには時間の関係上、同じ屋根の下に暮らしていながら一瞬たりとも家族と顔を会わせない日も少なくないので、事実誰も住んでないと言っても何ら支障はない。
毎日、太陽と共に目を覚まし『おはよう』はおろか鳥の囀りすら聞こえない湿気た早朝に、そそくさと一人で準備を済ませ、身を裂くような静寂を置き去りにして、ノイズとストレスで溢れかえった世界へ出陣する。そして日中、バカみたいに色んな人に頭を下げまくり、汗だくになって家につく頃には日付も変わり、また明日ちゃんと目を覚ますために誰とも言葉を交わすことなく早めに床につくのだ。もちろん手料理なんてものは存在しない。毎日がその繰り返しで毎日が憂鬱ではあるけれども、必ず家を出るときもしくは帰ってくる時に、分厚い層をなす静寂に向かって『行ってきます』『ただいま』と、もちろん返答などはないのに、それでも毎回声に出して言う律儀な自分の姿を彼はちょっとした誇りに感じていた。
今日もいつもと変わらない静寂の中に疲れてヘトヘトになりながら仕事を終えて帰ってきた。いつもならこの静寂に心がやられてしまうのだが、今日だけは違う。今日だけはこの静寂が彼の心を安らげていた。なぜなら、いつも仕事で怒られ、いつも頭を下げまくっていた上司から“なめらかプリン”をもらったからだ。それもただのなめらかプリンではない。あの何度もテレビで放送され、いつ行っても行列ができている入手困難な代物だ。なぜ上司がこれが彼の大好物だと知っていたのかは不明だが、そのプレゼントは彼の日頃のストレスを一気に吹き飛ばすには十分な威力があった。そのため彼は家に帰るや否や、いつもの『ただいま』の声掛けも忘れて、密かにプリンを食べていたのであった。
しかし、彼はプリンに夢中になるあまり気づかなかったのだろう。いつもとは違うもう一つの変化に。
彼がちょうどそれを半分ほど平らげた時、急に部屋の明かりがついた。久方ぶりに目にする妻の姿は何だか不思議な感じがした。彼が身動きができずにただ寝起きの妻を見つめていると、妻はゆっくりと口を開いた。
「なんか珍しく機嫌が良いみたいだけど、なんかいいことでもあったの?」
やっぱり覚えてなかったらしい。今日は僕の誕生日なんだ。
多くの感情が込められたその男の熱い涙は、誰の心にも届くことなく、無慈悲で空虚な静寂の中に吸い込まれていった。